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東京高等裁判所 昭和55年(う)567号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中一〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

〈前略〉

控訴趣意中理由不備又は理由そご、事実誤認及び法令適用の誤りの主張について

所論は、要するに、(一) 原判決は原判示第一ないし第三の各犯行を心神耗弱者の行為であると認定しているが、原判決挙示の各証拠に照らせば右は心神喪失者の行為と認められ、被告人は原判示第一ないし第三の事実について無罪であるというべきであり、(二) 仮にそうでないとしても、原判示第一の強盗致傷の事実については、原判決挙示の各証拠によつても被告人に財物強取の意図を認め難く、窃盗と傷害に問擬すべきものであるから、いずれにしても原判決には冒頭掲記の各違法がある、というのである。

しかしながら、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果をも併せ検討すると、原判示第一ないし第三の各犯行時被告人が心神喪失の状態になかつたこと及び原判示第一について強盗致傷罪が成立することは原判決挙示の各証拠によつて優にこれを肯認することができ、所論はいずれも採用するに由ないものと認められる。以下所論にかんがみ若干付言する。

先ず所論(一)は、被告人は覚せい剤中毒のため誰かに殺されるとか、追われているとの強い被害念慮に支配されて本件各行為に出たものであつて、当時是非弁別能力、行動統御能力を欠いていたというべきであり、覚せい剤中毒による幻覚・妄想等は常に一定期間継続するものではなく、種々のきつかけ、外的要因を引金として強まつたり弱まつたりするから、偶々被告人の行動の一部に一見異常が認められないことがあつても、それをもつて被告人の精神状態に異常がないと判断することはできないと主張するものであるところ、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人は昭和五三年一月鈴木まさえと結婚し埼玉県草加市内のアパートを借りて同居したが、同年二月ころ勤務先を退職して以降は定職に就かずパチンコ遊技などに耽り、毎日のように飲酒しては右まさえに乱暴を加えるなどしたため同女に愛想をつかされて同年七月ころ家出をされ、同年一〇月ついに同女と協議離婚する羽目に陥り、その後は前示アパートに一人で居住しパチンコ遊技で得た金や家財道具などの入質によつてその日暮らしを続け、アパート代の支払いもかなわず所有者から立退きを要求されるなどその生活は乱れ、追いつめられた不安定な精神状態にあつたこと、その間遅くとも昭和五三年一〇月ころからしばしば覚せい剤を注射するようになり、同年一二月初旬ころをピークにして姉の許へ度々「仕事に行こうと思つているが誰かが仕事をさせてくれない。」とか「夜になるとドアや雨戸を叩く者がいて眠れない。」などという異様な電話をかけるなどアルコール症を基盤とし幻覚・妄想を主体とする覚せい剤中毒症状であつた可能性の強い行状が認められたこと、被告人は原判示第一のタクシー強取の直前に約一時間にわたりアパート近くの飲食店で清酒五、六合を飲んでいること、原判示第一の犯行はタクシーの走行中に突然登山ナイフでその運転手の左脇腹を刺して反抗を抑圧するという唐突なものであり、また同第二の犯行(警ら用無線自動車のフロントガラス損壊)の直後被告人を緊急逮捕しようとした警察官に対し「お前らみんなで俺を陥れるつもりだろう。お前らが仕組んだ罠にはまつた。」と怒鳴るなど異常な言動を示したことなどが認められ、これらの事情に、被告人が犯行前夜覚せい剤を注射したと捜査段階から一貫して供述していることを併せ考えると、被告人は原判示第一ないし第三の各犯行時においてアルコール症を基盤とする覚せい剤中毒によりある程度異常な精神状態にあつた疑いが強いが、鑑定人家近一郎作成の鑑定書からも明らかなように、そもそも覚せい剤中毒による精神障害においては、現に幻覚・妄想等が出現して不安が高まつているときでも、精神分裂病などと異なつて人格水準の低下が著しくなく、行為者の人格はなお残存している場合が多いとされているから、幻覚・妄想等の出現下における行為であつても直ちに心神喪失者の行為であるとすることはできず、心神喪失の状態にあつたかどうかは、行為者の性格、過去の行動歴、犯行前後の言動、犯行の動機・態様、幻覚・妄想等の強弱などを総合して判断し、犯行時行為者が幻覚・妄想などによつてその全人格を支配されていたと認められる場合に初めてこれを肯定すべきものと解されるところ、これを本件についてみると、前叙のとおり被告人の精神障害を疑わせるいくつかの事情が存し、また被告人も原審第一回公判以来、何かに追いかけられている気がしたとか、車の走る音がお前は殺されるぞと言つているように聞えたなどと供述しているのであるが、原判決挙示の関係証拠によつて認められる次の諸事情すなわち、被告人は猾疑心が強く爆発性の性格を有し、これまでにも飲酒酪酊して飲食店や駅で他の客に暴行を加えたり、家庭にあつてもしばしば妻に乱暴を加えるなど粗暴な行動に出ることが多かつたのであつて、本件各犯行は被告人の右性格、行動傾向と矛盾隔絶するものでないこと、原判示第一のタクシー強取の犯意は具体的には乗車後犯行直前に形成されたものとはいえ、後記のとおり何者かの車を奪つて福島県の母の許へ帰りたいということは犯行前飲食店で飲酒していたときから考えていたのであり、それに利用するため態々自己のアパート居室に戻つて原判示第三の登山ナイフを持ち出し携行したものであつて、右各犯行の動機、目的と所論主張の被害念慮との間に直接の関連性はないこと、被告人は強取したタクシーを相当距離にわたつて運転し、その途中これを他車に接触させ、追跡してきた同車の運転手から文句を言われた際、「金を払えばいいんだろう。一〇万円以上は駄目だ。」などと応答し、そのあと同人が「警察に連絡してくるから待つていろ。」と言つてその場を離れた隙に逃げ出しており、このような言動はその当否は別にして全く尋常であること、原判決第二の犯行は被害タクシーを走行中道路幅が狭まつて前進が困難になつたところで停車した際、追跡してきた警ら用自動車の警察官や付近住民の姿を見て前示登山ナイフを振り上げ、「俺がタクシーに乗つて何が悪いんだ。」などと怒鳴つて暴れ出し、右ナイフの柄部で右自動車のフロントガラスを叩き割つたものであり、前叙のとおり被告人は緊急逮捕時に妄想と思われる異常な言動を示しているものの、他方において自分が逮捕されるという正しい状況認識を有していたものであること等の事情を併せ考えると、被告人に平素の人格が残存していたことは明らかであつて、本件各犯行当時被告人の精神状態は原判示のとおり心神耗弱の状況にあつたと認めるのが相当であり、所論主張のように被告人は被害念慮によつてその全人格が支配されていて当時心神喪失の状況にあつたとは到底認められない。所論は採用の限りでない。〈以下、省略〉

(千葉和郎 神田忠治 中野保昭)

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